カテゴリ:考察( 23 )

ピクトリアリズムからグラフジャーナリズムまで覚え書き

すべての映像は光と影からなり、その、「写真」のテクノロジーの萌芽は紀元前までさかのぼる。
カメラ・オブスクラは17世紀の「光と影の大いなる術」の中で遠近法の研究途上で新奇な視覚現象のひとつとして言及されており、実用化されるようになると多くの画家たちが作品制作の補助用具として「新奇な視覚現象」を絵画表現に取り込むようになった。
1840年代後半から50年代初めにかけてのカロタイプを用いた風景や建築物などの主題のアプローチを担った主だった写真家たちは、画家活動から転身してきた例が多く見られ、画家でなかった少数の人々でも絵画と緊密な接触関係にあった。
他方「1859年のサロン」という批評文の中でシャルル・ボードレールは写真術を「才能に恵まれないすべての画家たちの避難所」とし、「写真は科学と芸術の召使いという本来の義務に立ち戻らなければならない」という意見を述べており、当時の写真術の社会的地位の賛否がうかがえる。
コロジオン、アルビュメン法の普及とともに、富裕層のアマチュアによる肖像の探求で創意に富む例が19世紀後半に展開され、寓意的な主題設定による人物の演出写真や合成印画による「写真における絵画的効果」はアマチュア層に広く影響を及ぼした。
さらにゼラチン乾板の一般化とともにアート・フォトグラフィを志向する写真活動は19世紀末にピクトリアリズム(絵画主義)として立ち現れ、写真芸術運動は広がりをみせていった。
セザンヌやピカソ、ユトリロやアンリ・ルソーといった画家たちも写真をもとにした制作を行っているが、写真術の持つきわめて現実的で俯瞰的表現を絵にあてはめる場合、縮寸のむずかしさとの葛藤があった。
それは遠近法による空間構成の数学的な正確さが人間の視覚器官による調節可能な遠近法的な眺めと、まれにしか一致しないことによる。
しかし遠近法を徹底させることが芸術の質を高めることにはならないという事実に、写真術と絵画表現の根本的な質の相違がうかがえる。
因襲的な画家たちは、写真をまる写し用のお手本として用立てたが、実験的な写真と絶えず接触し、今まで見えなかったものを見えるものにする可能性を求めたのは印象派の画家たちであった。
写真に写実性という存在意義を脅かされた絵画が、独自の領域を見出した印象派の誕生である。
絵画と写真は互いに影響し合い、互いを意識しつつそれぞれの「性格」が形作られていったのである。
例えばウジェーヌ・アジェの19世紀末から20世紀初頭にかけてのパリの街並みの記録は当初、画家の「美術作品のための資料」であったが、マン・レイに見出され写真作品に昇華した。
さらに1919年にドイツのバウハウスに起こった新興写真運動は、世界の写真界を刺激し絵画の後を追うことをやめた新しい写真表現が始まったのである。
それは、写真本来の特質を再認識しようとしたもので、写真の記録性、瞬間の固定、精密描写、動感の表現、諧調の表現、遠近感の解放・誇張、視覚の延長、アングルの自由などを大胆に実験したカメラの目で見た新しい展開だった。
アメリカでは1920年代から30年代にかけて絵画や絵画的写真とは一線を画する、写真芸術の独自の可能性が優秀な写真家たちによって追求され拡大されていく。
ライカに代表される小型カメラと高感度フィルムの普及によってありのままの戦争が写真雑誌を通じて報道されるようになると、写真は芸術とジャーナリズムを強く結びつけるように働いた。
戦争報道写真が全盛期を迎え、個の視覚が社会で重要な意味を持つようになると、シュルレアリスムなどの現代美術に精通していたアンリ・カルティエ・ブレッソンは報道の為の写真ではなく、自分の関心に従って被写体を求め、写真に芸術としての品位と尊厳を与えた。
第二次世界大戦後の大学レヴェルの教育機関での写真教育により、享受者である新世代の写真家にとって写真が芸術手段であることは自明のものとなり、絵画など他の美術表現との融合が進んだのである。
1940年にはニューヨーク写真美術館に写真部門が発足し写真を現代美術の中に根づかせ、権威を高める役割を果たしている。
絵画と写真は密接にかかわり合いながらも似て非なるものであり、絵画の場合、技量の違いはもとより画家が眼に映る対象の何を見、何を見ないかという概念の作用による選別の違いが介在することで、画家たちが同一の対象を同じ位置から見て自分の手を使って写実的に描いても、生み出される画像はそれぞれ異なったものとなるが、写真はカメラを使って印画紙を感光させ作品を生み出すため、限りなく似た作品があっても本質的には記録である。
しかしその撮影の対象や撮影方法、カメラアングルや演出、現像や焼き付け技術、完成後の加工などによって作品は変化し、表現性が加味される。
絵画より瞬間を捉えることができ、リアルさも優れている。
芸術的表現の一つとして、見る人に撮影者と同じような臨場感を与える効果ももっており、絵画に比べて再現力の客観性が高いことを特徴としてあげられる。


参考文献、「世界写真史」、飯沢耕太郎、2004年、美術出版社、「写真と芸術、接触・影響・成果」、オットー・シュテルツァー、1974年、フィルムアート社、
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by artkzr | 2010-08-06 14:35 | 考察

バロック

「バロック」美術は16世紀末から18世紀初頭にかけての西洋美術の様式である。
プロテスタントの登場によって危機に見舞われたカトリック教会の対抗改革(反宗教改革運動)や絶対王政の確立を背景にした美術様式であるといわれている。
教皇庁が一般大衆の教化のための対抗宗教改革を経て権威の回復をおこなった。広く人々の感情に訴えるような奇蹟や殉教の物語が推奨され、強調され、豪華絢爛な聖堂、礼拝堂、祭壇が多く建造された。絶対主義王政下のスペインやフランスでは、美術行政が国家の重要事となる。
バロック美術はスペイン・ポルトガルが植民地化した中南米まで広がった。反宗教改革の軌道にもとづき創始された新たな宗派もバロック美術の発展に重要な役割を果たしている。
当時の芸術は鑑賞者の理性よりも感情に強く訴えかけるように工夫されており、歓喜、苦悩などが表現された。
イリュージョンによってわれわれを現実から遊離させ、聖人が経験するような宗教的幻視の視覚的な劇的さを特徴とし富と権力は虚飾に満ちた華麗さとして表現された。バロック絵画には躍動感があふれ、派手なきらびやかさに満ちており、明暗の対比がはっきりとし、描かれている人物たちの動きは流動的で激しくドラマティックである。
遠近法は強調され、誇張され、幻想に近い壮大なイメージを生み出した。
画題となるのは主にギリシャ神話や聖人、あるいは貴族や王族の生活や肖像であり「プロパガンダ」はバロック美術がもつ本質のひとつである。
注文主は王族・貴族・教会などの大金持ちで、修道会の伝道活動や聖人の栄光を称えようとするものや教皇や君主の治世やバルベリーニ家やメディチ家そのものを賞賛しようとする場合もある。
バロック絵画の全盛期は17世紀で、その中心はスペイン、スペイン領ネーデルラント、オランダなどであった。その先駆者と目されているのは北イタリアのロンバルディアで修行し、ローマとナポリで活躍したカラヴァッジオやギリシャ出身でスペインのトレドで活躍したエル・グレコが高く評価されており、他の代表的な画家としてはスペインのベラスケスやフランシスコ・デ・スルバラン、バルトロメ・エステバン・ムリーリョ、スペイン領ネーデルラントのルーベンス、オランダのレンブラント、フランスのニコラ・プッサンなどが挙げられる。
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ(1571年9月29日 - 1610年7月18日)は、イタリア・ミラノ生まれの画家でカラヴァッジオ(Caravaggio)という通称で広く知られているがローマ時代のカラヴァッジオは数多くの逸話を残している。
例えば「聖母の死」では、注文主の教会が「聖母マリアのお眠り」というテーマで描くよう依頼したにもかかわらず、カラヴァッジオは横たわっている女の遺体を描き、受け取りを拒否されるような従来の儀典的・超越的な聖母の死=魂の昇天のイメージを根底から否定する描写をしばしばしている。
その表現はルポルタージュ風の即物性と容赦なきリアリズムであり、教会に拒否されたのちに私的なパトロンによって高額で買い取られていることから他方では教会とは異なる高度に芸術的な価値基準が成熟していたことがわかる。
そもそもキリスト教の主題には、死や殉教、暴力、流血といった残酷なドラマが数多いがこのような人間のもつ暴力的エネルギーと恐怖を主題に描いた画家はカラヴァッジオが最初である。
「革命的」な性格を持つ「闇の様式」は17世紀のイタリアのみならず、ヨーロッパ各地の画家に強烈なインパクトを与え、数多くの「カラヴァッジェスキ(カラヴァッジオ様式の模倣者)」を生み出した。
宗教主題の反伝統的で挑戦的な民衆的=清貧主義的解釈、人物表現におけるラディカルなリアリズム、光と闇の表現的価値に精通した明暗対比の劇的な強調と新しい風俗主題のレパートリーの開拓、暴力的テーマの導入である。
この様式は、スペインのリベラやフランスのジョルジュ・ド・ラ・トゥール、オランダのユトレヒト派の画家たち、レンブラントへと引き継がれた。
「ユディット」の主題は中世以来、さまざまな芸術家によって描かれているが、カラヴァッジオの影響をうけた女流画家アルテミジアも描いている。
ホロフェルネス殺害の場面を表現するのはバロック期の新しい展開だが、カラヴァッジオの同主題の絵のユディットが身体を後方に引き気味にし、不愉快な表情で眉をひそめているのに対し、アルテミジアの描くそれは、逞しい力技を発揮し時に残酷な女性の本質を女性ならではの視点で描かれているように見え、比較すると、「暗」の局面を持つ一方で優しさや愛を持ち合わせていたようにも感じる。カラヴァッジオは徹底したモデル主義を貫いた自然主義者であり、いかなる作品を描く場合でもローマの裏街にたむろする老若男女、悪童や賭博仲間、人夫や娼婦、愛人などをアトリエに呼び絵を描いた。身分や地位などをとりはらった人間の存在そのものへの洞察による生々しいまでの表現は、官能性をも感じる。

参考文献「キリスト教辞典」、大貫隆、2002年、岩波書店、「世界美術史」、メアリー・ホリングスワース、1994年、中央公論社、「名画への旅11バロックの闇と光」、岡田裕成他、1993年、講談社
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by artkzr | 2010-08-02 09:56 | 考察

フィンセント・ファン・ゴッホ「自画像」

1780年から1980年までの間に制作された西洋美術の作品、国立新美術館企画展示室2Eにて2010年5月26日から8月16日まで行われた「オルセー美術館展2010・ポスト印象派」に展示された、フィンセント・ファン・ゴッホ「自画像」、1887年、油彩・カンヴァス、について実際に鑑賞した上で造形的な特質について具体的に考察をする。
印象派の筆触分割に影響を受けたタッチは独特に長く引き伸ばされ、うねり、顔面には、赤と緑で大胆なアクセントが添えられて、表現主義的である。
大胆で荒々しい筆触による形態表現が、綿密で繊細な計算によって構成されており、印象派風の明るく豊かな色彩描写はゴッホ特有の表現である。
自画像が配置されている中央部分の背景は人物を中心に渦を巻くような同系色のリズミカルな筆跡が残っており、自画像の顔部分に視線が誘導されるようだ。
全体的に背景部分の渦巻きを含め絵の具を塗っているというよりはのせているといった印象で、部位によって多様な形態表現が施されている。中心から外に向かうにつれ同系色の背景は求心的な渦巻きの筆跡から外に向かって拡散している。ストロークを変えることによって視界の幅を広げている。
背景に実景は描かれておらず色と線と形のみによって表現することでヴィンセント・ヴァン・ゴッホが自分という対象を凝視しその姿や性格、内面を描くだけでなく、絵画の可能性を追求する自画像へ取り組んだ姿勢を鑑賞者が追体験できる。
自分を見据える真摯な眼差しが印象的であり、目の陰影部分に施された緑色の絵の具は一見唐突な印象を受けるが、肌の色と対比すると補色になっており、髪の毛や髭、シャツの陰影部分にバランスよくとけ込んでいる。
他にも肌の色や髭の表現にみられる多様な色数の配置が自然に調和している。迷いのない太い線で描かれていることも印象的だ。
また、背景色との関連性も感じられる。背景と衣装の色が同系色にまとめられているのでなおさら顔と髭が引き立てられ印象深い。
衣装は背景と同系色でまとめられてはいるが、筆触はそれぞれ異なっておりバラエティに富んでいる。
例えば、衣服部分の絵の具は顔に比べるとややうす付きであり、混色により多少くすんだ印象をうけるが、彩りは淡く水彩画のようでもある。繊維やしわの流れにそって描かれた線は肌の色に呼応している。
全体的に紺に近い色がしめているので重くなりがちな印象だが、中心部分のネクタイの赤部分は顔の赤と呼応し、外側に向かうにつれ肌の明るい部分へとグラデーションになっており中心から外側へと視線が解放的になっていく。
一方、顔や中心部分に近い背景などには視線を誘導されるような筆触が特徴的で、背景とのメリハリがある。
特に画面手前部分、鼻・シャツの襟などは特に絵の具を厚く盛り上げて塗っているので遠近感が感じられる上に、顔・衣服・背景との断絶がはっきりと強調されている。
襟の下にも同様の調子で盛り上げているところに、ほぼ真ん中にある断絶の襟の存在の緊張感を分散させてくれる効果を感じる。
同色の濃さを変え、額と鼻にいれることによりそれぞれの独立した要素が関連性を持ち、とけ合っている。
画面全体を通して、それら色使いのバランス表現が見事に調和している。
奥の画面では溶き油などを使用したような滑らかな線が求心的、もしくは放射的にぬられている。
放射の先には髪や顔に使用されている黄色系の色が淡く配置されているので背景が画面以上に広がりをもっているように感じ開放的である。
手前部分も同様に外套の生地は滑らかな質感を醸しており上にのせられた柄のかすれた筆触が背景との輪郭の境となるアクセントになっている。
ストロークも繊維の流れにそって、もしくは重心にそって向きを変えて変化に富んでいる。
顔の輪郭は衣服同様ではっきりとは施されていないが、背景から塗った絵の具で決めている部分は衣服の輪郭線とのはっきりとした違いであり、輪郭線はなくとも両者とも手前にあることがわかるが背景色を左耳部分との境界にしっかりと置くことで顔の部分が特に強調されて遠近表現にもなっている。
背景・顔・衣服と、様々な筆触表現を試みており躍動感や無限性、絵の奥行きを感じさせる。
多様な色数もアクセントとして使用される色それぞれに関連性があるため、結果として1つの絵としての調和をつくっている。
ばらばらになりがちなたくさんの色と筆触を絶妙で精緻なバランス感覚によってまとめあげているのだ。

参考文献、「ゴッホ自画像の告白」、編集・訳木下長宏、1999年、二玄社、「ポスト印象派ビジュアル美術館」、コリンウィギンズ、1994年、同朋舎出版
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by artkzr | 2010-07-26 14:26 | 考察

中世美術

1)初期キリスト教時代の「ヨナと鯨」はローマのサン・マルチェッリーノ・エ・ピエトロのカタコンベの壁画である。
古代末期は、多くが東方に起源を持つ神秘主義的な宗教がローマ帝国内で乱立した時期である。
最初のキリスト教徒は貧しい労働者階級が多く、質素さを重んじる道徳観を有していたためにこの時代の美術は簡素である。
偶像崇拝禁止の教義のため、キリスト像は象徴によって表されることが多く、3世紀のカタコンベ壁画では、十字架の形を象徴する錨(いかり)やイエス・キリストを意味する魚や文字など、信仰を間接的・暗示的に表明する単純なモチーフが大半を占め、顔料を用いた壁画、エンコースティック、モザイク画が発展した。ヨナの物語は「聖書」の一場面を描いている。
キリストの到来によって魂の復活と救済を確信していた教徒の関心を反映する図像が多い。平面的で描き込みの少ないこの時代の絵は世俗的な富や権力が介在せず、質素で素朴であるがゆえに人々の無垢な信仰を感じた。
2)ビザンティン時代の「シナイ山のキリスト」は、古代末期の3次元的、自然主義的表現を継承しつつ、平面的、抽象的傾向を強め、同時代の西ローマ・西ヨーロッパの美術に比べて独特な東方特有のキリスト教美術であり、多くが現実の再現よりも神秘的な神の超越性の形象を求める理知的な傾向、鮮やかな色彩などを贅沢に使うことを特徴としているが、イコノクラスム期間に大半が破壊された。
392年、テオドシウス帝がキリスト教をローマ帝国の唯一の国家宗教となし、宗教的寛容性が終わりを告げたことによって美術はキリスト教教義のためのプロパガンダとなった。
絵画よりも高価で富と権威の表現に適したモザイク画の放つ光はキリスト教図像の神秘性を強めた。地上の皇帝と同等の権力を有する天上の支配者である勝利のキリストは、ローマ皇帝の衣をまとい威厳ある堂々たる全能者の姿に表された。
左右非対称の顔は眼光鋭く、口は真一文字にとじられ、威厳に満ちた表情だ。
肌や眼などの表情が念入りに描かれ、神秘性の表現におもきがおかれていたことがわかる。

3)西欧中世初期時代のローマは帝国ではなくなったが、いまだキリスト教の精神的な中心地であり、教皇はこの権威の可能性を追求し異教徒が理解出来る言語で教えを伝えて改宗者を教育することにより学問の発達、聖典、聖書の写本制作が促進された。
「ケルズの書」の「聖母子」は
古典古代美術の自然主義的な伝統と接触のなかったアイルランド系修道士であるケルト系キリスト教の高度に抽象的で装飾的な様式と旧来の文化が対峙しながら発展していった。
聖母子や天使の表情に写実的な人物表現はみられず、キリスト教の神秘性を表現する抽象的で精緻なケルト文様で装飾されている。
曲線の美しさが印象的である。人物の顔や髪、衣文の文様化により、どことなく愛らしく、親しみやすい雰囲気を醸している。

4)ロマネスク時代の「栄光のキリスト」はロマネスク美術の最高傑作といわれる、サン・クリメン教会の高さ8メートルの巨大壁画である。
 天上(神の)世界をキリストの像で表しており、キリストの像は左右対称だがポーズを崩していきいきとした動きを持っている。
色数は少ないが鮮やかで、その輝き自体が威厳にあふれたキリストの神の栄光を表現している。
右手の形はキリストが人々を天国に導く最高の存在であることを示している。
全西欧に普遍的な美術が発展し聖遺物崇敬が頂点に達し巡礼熱が遠隔地同士に多様な交流を促した。重要な聖遺物は必然的に巡礼者と収入をもたらすため、教会は所有物に対する信仰を奨励した。各国、各地方でそれぞれの独自性を持った最初の大芸術が生まれた。
教会は精神的権威を強化するために、世の終末に対して民衆が抱いていた恐怖心を効果的に利用するなど、物質的富を誇示し、布教するために芸術を利用した。
この時代は磔形図も長衣をつけ、眼を開き、脚を平置し堂々とした威厳、キリストの勝利を強調している。

5)ゴシック時代のチマブーエ作の「十字架のキリスト」は宮廷様式の時代をむかえ、テンペラ技法による衣文が大きく面的に表現され、明暗を加えることにより立体的な絵画表現がみられる。
ロマネスク美術に比べ、遠近法や優雅な線の使い方などの自然な人体表現などがなされるようになった。
都市発展が進んだ結果世俗権力への富の再分配を促し、金銭と権力は修道院から都市へと移った。この時代の磔刑像は、キリストは腰衣だけをまとい、傷口やそこから流れる血を強調して示し、眼を閉じ、一本の釘で重ねた両足を打ち貫き、荊の冠をして、息の絶えている、贖罪としてのキリストの苦難を強調した姿を表したものが多い。
この絵に見られるキリストは頭を垂れ、血をながし悲しい表情をしている。
ビザンティン美術の様式が色濃く残っているものの人物の自然な表情や衣服の表現にみられる空間表現への意識など、ルネサンス絵画への道を確実に歩み出していることが見て取れる。



参考文献「世界美術史」、メアリー・ホリングスワース、1994年、中央公論社、「西洋美術の主題と物語」、三輪福松、1996年、朝日新聞社、「岩波キリスト教辞典」、大貫隆他、2002年、岩波書店、「岩波世界の美術初期キリスト教美術・ビザンティン美術」、ジョン・ラウデン、2000年、岩波書店
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by artkzr | 2010-07-26 11:55 | 考察

牡丹に蝶

浮世絵は鎖国下の江戸時代の庶民層によって生み出された美術である。
理想や建前の絵画表現である官画と比べ率直な人情に即した俗の絵画の代表といえる。
浮世絵には版画、絵画と肉筆画のものがある。絵画と肉筆画は一点ものであり、名のある絵師によるものは高価であった。これに対して、木版画は庶民大衆の広範な需要を前提とした美術であるために、同じ絵柄のものを多く刷り上げることができ安価で、江戸時代の一般大衆もたやすく求められる表現形式であった。
当時の日本は多くの点で同時代のヨーロッパと比べて少しも遜色のない高い文明度を持った社会背景を作り上げた時代であった。
その理由として
1)100万人を超える総人口
2)商品経済の進展とそれに伴う実力派町人層の台頭と興隆
3)江戸大都市の発達
4)全国規模にわたる交通、通信、運送手段の整備、
5)庶民階層までも含めた教育の普及
等に端を発し、定着して生活を営む層が増加し都市としても文化としても成熟度が高まり、洒落本、読本、草双紙、錦絵などの出版物を手がけた地本問屋が隆盛した。
それは本のみにとどまらず社寺に奉納される絵馬が絵画鑑賞者層の拡大に大きく貢献し芝居、遊芸、見世物、民衆版画等を通じて文化の大衆化が始まったことにも起因する。
初期の浮世絵は肉筆画と木版の単色刷り(墨摺絵)が主であったのが明和2年(1765年)から錦絵が誕生する。
錦絵は多色摺の木版画のことで、多色刷りが可能になった背景には、重ね刷りの際の目印となるよう「見当」が工夫されたこと、複数回の刷りに耐えられる丈夫で高品質な紙が普及したことが挙げられる。
越前奉書紙、伊予柾紙、西野内紙などの楮を原料とした紙が用いられた。
また、経済の発展により下絵師、彫師、刷師と複雑な工程の分業体制を整えることができた点もあげられる。
浮世絵師、「葛飾北斎」は生涯にわたり肉筆画、摺物、版画、挿絵、絵手本、役者絵、美人画、物語絵、花鳥、動植物、風景、風俗、装飾等あらゆる分野において多様な技法を駆使して膨大な量の作品を生み出し、絵画史の上に大きな足跡を残した人物である。
作品は、「鎖国時代」にすでにある程度まで西欧にしられており、世紀の後半にはフランスの印象派、後期印象派の画家たちや愛好家に強い衝撃を与え、ジャポニズム流行の重要な一因となった。
「葛飾北斎」は、1760年 江戸本所割下水に生まれ1764年に 幕府用達鏡師であった中島伊勢の養子となった。
1778年 、勝川春章の門に入り狩野派や中国画、西洋画などあらゆる画法を学び、風景画を多く手がけた。
この頃は「春朗」という号だった。
北斎は、絵師人生の中でおびただしい数の改名をしている。「宗理」「葛飾北斎」「戴斗」「為一」「卍」等等である。
生涯にわたり、名号だけでなく描くジャンルや画風をも次々に変化させていく画歴は常にエネルギッシュで、その枯れることのない創造性と、絵に対する飽くなき探求姿勢には感嘆すると同時に見習いたい。
どの作品にもいわゆる乱作は見られず、考え尽くされた完成度の高い魅力的な作品ばかりだが、「牡丹に蝶」を例にあげてみたい。
天保2年頃につくられ、ミネアポリス美術館蔵のこの作品は横大判錦絵で、北斎の描く花鳥図は全部で10図が知られている。
主題は花と昆虫を組み合わせたものがほとんどだが、同作品は吹き付けてくる風に体全体を揺らしているたわわな肉付きの牡丹を、画面からはみださんばかりに斜めに配置することで表現されており、葉や花弁が表裏によって色の濃さを変え、ぬかりない細部の自然観察表現が特徴であり、絵を全体で眺めたときの構図の取り方、配置、そして間近で見たときの精緻な描写、メリハリのある色彩構成などは北斎画共通の魅力であり特徴である。
どれもが動かしがたい構成の上になりたっており綿密に計算された構図である。
右上から左下への力強い構成力学を、傍らに逆さに描かれた蝶によって風の強さを表現しており、その位置とモノトーンの色彩が構図上で視覚的ポイントとなっている。
一見すると、単純な美しさを持ち合わせた花鳥図のようにみえるが、目に見えない風や、空間をも表現しており、従来の花鳥図にみられるような平穏な四季の推移や季節感を表出しつつ季節の変化に感じ入り謳い上げるといった表現とは一線を画している。
少し年若である浮世絵師、歌川広重の安政4年に描かれた「亀戸梅屋舖」は、構図こそ大胆ではあるが、「予がまのあたりに眺望せし其儘にうつし置きたる草稿を清書せしのみ」と語るがごとくあるがままを鮮麗な色調で静謐に描いている。
歌川広重の表現を静のそれとするならば、北斎の「牡丹に蝶」は富岳三十六景などにみられるような大胆で奇抜な作品では無いにしろ、独創的な表現、艶麗な風情、ドラマティックな迫力、斬新な画面構成等、どれをとっても一貫して北斎画業の重要な特色であり、動的な表現に満ちあふれている。


参考文献「浮世絵の歴史」、小林忠、1998年、美術出版社、「19・20世紀の美術岩波に本美術の流れ6」、高階秀爾、1993年、岩波書店、「新潮日本美術文庫17葛飾北斎」、神谷浩、1998年、新潮社
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by artkzr | 2010-07-26 11:49 | 考察

映像文化覚え書き

写真の誕生は、1830年末の西欧において告げられた。
ニエプス、ダゲール、タルボット、バヤールといった複数の発明者がそれぞれの関心のもとに着想を実現した新しい画像形成の技術である。
17世紀にカメラ・オブスクラが実用化されると、多くの画家たちが作品制作の補助用具としてこの機器を使うようになった。
初期の写真術では一回の撮影で得られる画像は一点限りであり複製を生み出す能力を欠いていた。(ダゲレオタイプ)
のちに画像を形成し定着させる支持体が金属のプレートから感光物質を染み込ませた紙に露光を行うことによって黒白を再反転させたプリントを何枚でも複製する技術が実現した。「カロタイプ」の発明である。
発明が一応の達成をみた後に史上初の写真入り刊行物「自然の鉛筆」が1844年から46年にかけて6分冊刊行される。
地理上の遠隔地の景観をとらえ、イメージを間近に所有することが可能になり、その手段としてダゲレオタイプを活用し、画像から腐食銅版画の版を描き起こし、複製化して出版する一方で、その精密な描写力を活用し顕微鏡によって観察される像を画像標本にした。
17世紀以降19世紀に至るまでブルジョワ社会の勃興にともない肖像画の世俗化と拡大が進んだことはそれまで限られた特権階級に専有されていた、自分や家族の肖像を持つという習慣への公衆の欲求に応える革新的な方法であり、活発な肖像ビジネスが成立された。
カロタイプの導入によりフランスにおいては公的機関が発注し、各地の建築遺産、鉄道路線、自然災害など国土の地理的様相を扱う記録事業が遂行された。
並行して先駆的に写真と出版メディアの結び付きは大きく進展し、版画等の媒介のないカロタイプ印画をじかに取り込む写真出版が産業として成り立ち始めた。
鉄塩の感光性を用いた技法の「サイアノタイプ」は19世紀から20世紀にかけて複製技術の需要が高まる工業分野でも重用された。
1851年にガラス板を支持体とし、その表面にコロジオンという物質を塗布しネガ・プレートとして用いる「湿式コロジオン法」の導入が本格化し、写真術の利用が地球的規模に浸透した。
ロンドンでは1855年に史上初の本格的な戦争写真の事例としてクリミア戦争のドキュメントをロジャー・フェントが撮影し、戦争という出来事を写真によって報告すること、写真というメディアによる叙事の方法を実践的に切り拓き、写真画像の流通と享受の形態を広げる一助となった。
さらに鶏卵白を用いた印画紙であるアルビュメン・ペーパーと併用することによりシャープな輪郭、光沢ある表面、コントラストの鮮明さを表現でき、商業目的の量産工程も円滑化した。
1870年代の末、ゼラチン乾板の開発が進み、従来撮影者自らの手で準備されていたネガ・プレートは工場での量産品として市販化され、プレート処理の手順が簡略化された。
高感度のゼラチン乾板の普及により動態撮影が可能になったが、並行して写真の感色性改善という課題を模索していた。その時代から改良を重ねてつくられていたプラチナ・プリントにおける印画法は諧調表現の豊かさと優れた耐久性を備え、その画像をもちいた写真出版物を発表したのは1880年代後半にアート・フォトグラフィの革新者として登場したピーター・ヘンリー・エマーソンである。
その後、造形芸術としての写真表現が時代背景を反映しながら進化をとげる。
19世紀末に発明された網目版印刷法は、写真を文字と同じ紙面に印刷し、一度に大量の情報を多くの人々へ送ることを可能にした。
そのことは大衆の視覚の欲望を刺激し、視覚文化の享受の効力を発揮する。
しかしロシア構成主義のエル・リシツキーによる「ソ連建設」に見られるようなイデオロギーのためのプロパガンダに利用されることも少なくなかった。
1930年代の政治的な事件や世界へ拡大する戦争はライカに代表される小型カメラと高感度フィルムの普及によってありのままの戦争が写真雑誌を通じて報道されるようになると写真は芸術とジャーナリズムを強く結びつけるように働く。それらの映像は世界中の戦争や重大事件の目撃者として人々に忘れがたい記憶を残した。
ファッション専門雑誌における広告・ファッション写真は女性たちの消費の欲望を刺激し、趣味やライフスタイルを選択する物差し、意思や態度を決定する規範となり、個人消費の拡大の一助として報道写真と同様に社会的影響力を持ち、ファッションがより民主化されるに至る。
色調の安定性などカラー写真の問題が解決された1970年代以降、カラー写真による表現を試みる写真家が登場した。
現代ではデジタルカメラやスキャナ、コンピュータの普及によりデジタルイメージが選択肢のひとつとして一般化されるにともない、新たなコミュニケーションスタイルが成立し、ブログなども含め紙媒体ではない写真イメージが無数に飛び交い氾濫している。
映像メディアだけでなくメディア全般のメディア・リテラシーが求められているのである。



参考文献、「世界写真史」、飯沢耕太郎、2004年、美術出版社、「写真と芸術、接触・影響・成果」、オットー・シュテルツァー、1974年、フィルムアート社
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by artkzr | 2010-07-24 19:18 | 考察

「源氏物語絵巻」「信貴山縁起絵巻」

「源氏物語絵巻」は、源氏物語を題材にして制作された絵巻としては現存最古のもので、平安時代末期の制作であるとされており、各帖より1ないし3場面を選んで絵画化し、その絵に対応する物語本文を書写した「詞書」を各図の前に添え、「詞書」と「絵」を交互に繰り返す形式である。
物語の挿絵にとどまらず、人物の心意や場面の情趣をも描いた物語絵巻である。
衣装の色合い、色彩構成、人物配置どれもが緊密であり主人公たちのせつない心の動きを効果的にあらわしている。
書も大変美しく、芸術として鑑賞する楽しみがある。
詞書の第5紙の重ね書きは少々読みづらい部分がありながらも切迫した物語雰囲気を視覚的によくあらわしており効果的だ。流麗なひらがなと様々な書風の混在は優美である。また、料紙は場面毎に趣の違うデザインを施されており、どれをとっても濃密で美しい。
斜め上方から見下ろした俯瞰描写が多くみられ、「吹抜屋台」という屋根や天井、蔀度や御簾等、不要なものは一切描かれておらず、鑑賞者に見せたいものだけを最も効果的に見せている。観者は吹抜屋台による俯瞰視点と至近距離にいる女房達の視点、二カ所から物語に参加することができる。
構図には等軸測投影図法と斜投影図法を場面によって巧みに使い分けており、奥行きの表現をほとんどせず、全体に色の面をバランスよく配置し、見る者の目に、画面の美しさや華やかさを強く訴えかけてくる。後ろ姿の人物が極端に小さく描かれているのは女絵の約束事である。
人物は「引目鉤鼻」の手法が用いられている。
一見単純な描法の顔だが、一本の線のように見える目は細い線を引き重ねて、墨の濃淡がつけられていたりするので、微妙な心理が慎ましく表現されている。
絵巻ならではの流動感をあえてせず、画面は一紙で完結し、情景は静止した世界で細部まで入念に描かれていることで、鑑賞者は時間をかけ物語の男女の心情に没入し細かい部分を味わうことができる。

「信貴山縁起絵巻」は、平安時代末期の絵巻物で、院政文化または平安末期文化という平安時代末葉の11世紀後半から鎌倉幕府成立に至る12世紀末にかけての文化の中でうまれた作品である。寺院の創建にまつわる話を絵巻としたもので、通常の寺社縁起のごとく開山の縁起を記したものではなく、平安時代中期に信貴山で修行して当山の中興の祖とされる命蓮に関する説話を描く。
院政期は、貴族勢力の衰退と武士勢力の伸長という過渡期に位置しており、文化の面でもこのような時代の気風を反映した新しい動きがみられた。
貴族の文化的関心が都での現実生活から、地方、庶民、過去(歴史)へと向かう傾向が顕著であり、また、武士・庶民文化の萌芽もみられる点を大きな特色としている。

山崎長者の巻、延喜加持の巻、尼公の巻の3巻からなる絵巻で、都の庶民のみならず地方農村の庶民生活や風俗、躍動感が軽妙な筆致でいきいきと描いてあり、時代の空気がよく示されている。
登場人物の表情が豊かに誇張され戯画的であるので、鑑賞者も思わず顔がほころんでしまうほどだ。
日本の美術作品で民衆の暮らしぶりが描かれるのは、これら絵巻物が最初であり、その意味でも画期的である。
観者は料紙を何紙も継ぎ合わせた巻物の位置や横幅を任意に選択し画面を止めて図を鑑賞できる。
巻物形式の特質である、右から順に見なければならないという物理的な制約を、連続して流れるような細やかな筆致で情景を展開することにより大和絵の特色を効果的に活用している。
尼公(あまぎみ)の巻では東大寺の大仏前で祈りかつまどろむ尼公のさまを描いた部分が、異時同図法を用いた圧巻として知られる。
時の推移がわかりやすい人物配置や画面一杯に広がる自然風景の描写、図様の疎密、テンポの緩急、時として前後する場面表現、視点の遠近の組み合わせによる起伏に富んだ画面展開が流動的に紡がれていく構成は律動感をもっているので物語にひきつけられたまま目をはなす事が出来ず最後までひきこまれてしまう。

信貴山縁起絵巻は漫画のような性質を持っているので物語の推移を先へ読み進む楽しみ方を持っていることと比べると、源氏物語は、額に飾られた絵を、歩みをとめてゆっくりと鑑賞するような楽しみ方がある。人物の心情が画面に細密に描き出され女絵ならではの味わいがある。
「源氏物語絵巻」の世界が閉ざされた安泰した貴族の世界観を表しているのに対し、「信貴山縁起絵巻」は鎌倉新時代をむかえる平安末期の変動する社会情勢、密教図像の流行などの時代感覚背景を持ち、前者の表現を静とするならば、後者は動といえる。

参考文献「じっくり見たい源氏物語絵巻」、佐野みどり、2000年、小学館
「国宝絵巻信貴山縁起絵巻」、村重寧、1979年、岩崎美術社、「日本美術の流れ10−13世紀の美術」、千野香織、1993年、岩波書店
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by artkzr | 2010-07-10 12:18 | 考察

2010古代美術について

古代美術では、人体を表現する場合、どのような形や手法を選んだのだろうか?
1)エジプト美術
題名「ラー・へテプとネフェルトの像」
制作年代、第4王朝、前2600年頃
所蔵美術館、カイロ美術館
素材石灰岩、(彩色)目の部分、水晶・黒石
カノンは身体の中心を通る正中線に対してほぼ左右対称に各部が配置されており、座像は膝に両手を置いて表現される。幾何学的な肉体構成と写実的な頭部の共存が特徴である。
この時代の埋葬は肉体のミイラ化に加え、ミイラが破損しても魂を宿す役目を持ち、永遠の生命を確実にするために彫像がつくられた。彫像が墓主に似ていることが求められたため、写実的な肖像彫刻である。
人体のプロポーションを定めたカノンはギリシャのアルカイック期へと受け継がれて行く。
水晶と黒石を使用した目の力が印象的でリアリティがある。
特にネフェルトは宝石や服飾も洗練されており透き通るような白い肌が美しく女性らしい。
2)メソポタミア美術
題名「信者の小立像」
制作年代、紀元前2700年頃
所蔵美術館、バグダッド、イラク博物館
素材石、目の部分、貝と黒い石
大きく見開いた目と、身体は円柱型で、腕や足は単純な形にデフォルメされている。
都市文明の進歩への一歩を踏み出したこの時代は宗教が最初から主要な役割を担っていた。古代の神々は人類にとって恐ろしい力の持ち主で、鎮められなければならない存在であったため、人々が死した後も代わりに祈り続けてもらうために聖堂内に信者の礼拝像を置いた。
この時代はエジプト美術の作品のような幾何学的な秩序や写実性は影を潜め簡略化され、デフォルメされた大きく見開いた目が印象深い。恐るべき偉大な神の前になす術もなく立ち尽くす小さな人間の存在が見て取れる。
3)エーゲ美術
題名「蛇を持つ女神」
制作年代、紀元前1550年頃
所蔵美術館、ヘラクリオン考古博物館
素材、象牙
階段状のドレーパリーをもつロングスカートの上に前掛けをし、胸をあらわにしたこの服装は、ミノスの宮廷の典型的なモードであったと考えられ、祭礼に用いられていたものと考えられる
それ以前の時代の慣習として受け継がれる厳格な様式はみられない。
エーゲ美術は、オリエント美術・他の文明との交流をはかりながら発展し、海洋民俗特有の開放性をもっている。この小立像は闊達で動的であり、また女性的な優雅さがある。
4)古代ギリシャ
題名「クニドスのアフロディテ」
制作年代、紀元前340年頃ローマ時代の復刻
所蔵美術館、ルーブル美術館
素材、大理石
オリジナルと複製が多くあるが、恥じらいのヴィーナス型とも呼ばれ、右手で陰部を隠しているのが特徴である。ここから派生した型(胸を手で隠すなどのポーズをしているもの)として、メディチ家のヴィーナス (Venus de' Medici) やカピトリーノのヴィーナス (Capitoline Venus) がある。
オリエントに近かったクニドスの人達は、オリエント的な神々に回帰した。オリエントでは、裸の女神は、子孫の繁栄や作物の豊作をもたらすものと信じられていたがこれまで全裸の女神像というのはなく、芸術上の革命といえる。人々がより洗練された完成度を求めるにつれ、人体の強健さよりも美しさや官能性は高められ、その表現は女性像に大きな影響を与えたのである。ギリシャ・ローマの古代の芸術を手本とする古典主義は、西欧美術の伝統のひとつとなっていく。また、ギリシャ美術に関する知識は、鑑識眼を発達させローマ人はギリシャ彫刻の収集を行う。その結果、ギリシャの原作が稀少になるが、原作の模索の需要が高まり、今日人類のギリシャ美術の知識の基礎をなしている。
この時代の彫刻の人体表現は古典期のコントラポストを継承しているものの人体演出はくつろいでいるようであり、従来の厳格な表現に代わり官能性が高い。
大きな躍動表現はないにも関わらず永続的な動きの中のひとこまのように自然で、優雅な動きの一瞬をとらえている動表現であると感じる。
この女神像は、小アジアのギリシャ領クニドスの聖域に捧げるためにつくられたものである。
5)エトルリアとローマ美術
題名「プリマ・ポルタのアウグストゥス像」
制作年代、紀元前20年頃
所蔵美術館、ローマ、バティカーノ美術館
素材、大理石
この像はポリュクレイトスのドリュフォロス像を模している。
ローマの皇帝の、平和を維持するための軍事的権力の強調のために、視覚的系像を創出することを重要としていたプロパカンダ芸術でもある。
皇帝を死後神格化するという伝統がここからはじまりローマの宗教は自らの先祖の業績を崇拝することに端を発しているため理想化された肖像よりも写実を好んだために、写実的な肖像の伝統が確立された。
政治的権力を示すための意図を持つ像としての厳格で高圧的な雰囲気が微塵も感じられず、穏やかで寛容なイメージの方が強い。
それは従来の系像感を脱したいわゆるローマ的価値観の表現の1つといえるのではないか。


参考文献「世界美術大全集第3巻」友部直、水田徹ほか、小学館、1997年。「世界美術史」メアリー・ホリングスワース、木島俊介訳、中央公論社、1994年。「NHKルーブル美術館2」監修高階秀爾、1985年
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by artkzr | 2010-06-09 18:01 | 考察

地域社会におけるアートマネージメント

世田谷地域の芸術文化活動を調査し、地域社会におけるアートマネージメントを考察する。

現在、区では現行の文化・芸術振興「新せたがやアートプラン(文化・芸術振興計画調整計画)」の策定を進めている。
世田谷区のこれまでの文化・芸術の振興は、拠点施設を中心に行われて来たが、この計画の目指すものは、これまでの取り組みを一層充実するとともに、区民団体などと連携を進め世田谷全体に展開することである。
文化芸術は美術館や劇場で単に展覧・公演するだけでなく、地域の課題を解決し、街の活力を高める可能性があると考え、「まちの魅力向上」や「商店街の活性化」などの事業を設けている。
誰もが気軽に文化芸術に触れることが出来る環境づくりに向け、施設設備のみならず、サービス面においても、福祉現場などを参考にしながら、取組みを進めている。
現在、世田谷美術館では、視覚障害者から事前の相談があれば、鑑賞リーダー(ボランティア)による展覧会の案内を行っている。また、劇場での視覚障害者のための舞台説明などの取組みを行っている。

当計画の基本理念は以下の3点である。
1)文化及び芸術に関する活動における自主性及び創造性は、尊重されなければならない。
2)文化及び芸術を鑑賞し、その活動に参加し、及び創造することのできる環境の整備が図られなければならない。
3)文化及び芸術の振興に当っては、区、区民、民間団体、その他自治体等の相互の連携が図られなければならない。

文化・芸術が区民生活に根ざし、質の高い文化・芸術に日常的に触れることができる環境をつくるとともに、町が様々な文化・芸術を育み、また文化・芸術がまちの活力と魅力を高めていくなど、文化・芸術とまちの新たな関係により、誰もが住み続けたいと願うまち世田谷を創るため、多彩な文化資源を活かしながら、暮らしの中に文化・芸術が息づくまちをつくるべく区民生活と文化・芸術を様々な手法でつないでいる。
質の高い文化・芸術を育むとともに、それらを区民が支え、日常的に享受できる魅力ある世田谷ライフスタイルを創出し、文化・芸術の持つ力により、子どもがもつそれぞれの個性と創造性を伸ばし、情操豊かな人間を育む。
まちの活性化と魅力ある産業の創造につなげ、活力と輝きある世田谷を実現し、教育、産業、まちづくり、福祉など多様な行政分野を横断する総合的な取組みとして展開している。文化芸術の持つ想像力を、区内の産業振興や街づくりなどに活かし、文化政策を産業政策、環境政策、都市政策などと融合点推進する視点から取り組むといったそれらの業務をせたがや文化財団が行っている。

せたがや文化財団は、世田谷文化生活情報センター(世田谷パブリックシアター・生活工房)、世田谷美術館、世田谷文学館等を運営し、世田谷区と区民との連携を図りながら専門性の高い芸術・文化事業を展開するとともに、区民の主体的な地域文化創造活動などの支援や国際交流を推進し、地域文化の創造と、ふれあいと活力にあふれた地域づくりに寄与することを目的に設立された財団法人である。

取組みを推進する核とするとともに、総合的な文化・芸術の索引役として、
「情報機能の充実」「中間支援機能の充実」「地域との協働体制の強化」「シンクタンク機能の充実」「評価の取組み」、多様な機関等との連携・協働を進める、
「区内民間文化施設」「文化事業者」「文化施設におけるインターシップや研修の受け入れ」「大学施設の利活用」等を「せたがや文化財団」と各館が事業充実を図っている。

それらを先導する重点取り組みプランは、「まちの文化力を高める」とする「世田谷芸術百華」である。
秋の恒例事業として継続的に展開、「商店街アートプロジェクト」をより充実させていく方向である。
区内の文化資源を掘り起こす目的の、「バスツアー」は平成19年度から公民の文化施設・観光振興事業等と連携して実施している。
「アートネットワーク会議」とは区内に様々な自立的なネットワークが形成されることを目的としている。
また、区民文化活動の支援とネットワーク形成のために、参加団体を中心とした区内文化芸術施設等を紹介する「アート・マップ」を作成した。
次代に向けた投資・人を育む目的として自発性を促し「触れて・試して・理解する」ことを基本とした子供のための博物館を基に、夏休みを中心とした「遊びとこどもプロジェクト」は、特に体験型の子供向け事業を区内の多様な文化施設で展開した。
子どもへの取組みのより一層の広がりと充実を目指し「子ども文化・芸術サミット」を実施。
若手アーティストの企画提案を公募し、優秀提案に対して次年度に発表の機会を提供していく2カ年のプログラムで、プロフェッショナルとしての飛躍の機会となる支援として「世田谷芸術アワード 飛翔」を実施。
「音楽文化振興に向けた取り組み」としては、子どもの興味や意欲を体験から表現へ、さらには集団での表現へと発展させていくことのできる多様な道筋を提供する目的の「楽器体験ワークショップ」「ジュニアオーケストラ」、区民の音楽活動の発表の機会としての「アマチュアライブ」等である。
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by artkzr | 2010-05-12 15:50 | 考察

2010アートのマネージメントについて

私が興味を持ったのは、非営利組織によるアート・マネージメントである。
アート・マネージメントとは、広義には、芸術家などの創造性、それを享受するオーディエンスやコミュニティ、およびそれらを支える資本、という芸術文化活動をめぐる要素間それぞれの連携、接続を機能させるシステム全般を指す。この用語の歴史はまだ浅く日本におけるそれは90年代に入ってから口にされるようになった。
アート・マネージメントの在り方は各国の政治、伝統により芸術文化機関の組織・運営制度が異なり、また、各地の文化状況・政治によって多様に理解されているが、日本の社会における芸術文化は私的な趣味か消費的な娯楽とみられる傾向が未だ強く、欧米のそれとは成熟の度合いを異にしているのが現状だろう。
基本的にアート・マネージメントは利益以外の固有な価値の実現を追求するためにつくられた非営利組織(NPO)のマネージメントのことである。

2007年に横浜市旧桜木町・横浜間の高架下壁面において主催、横浜市・協賛、株式会社ナイキジャパン・協力、NPO法人KOMPOSITIONによる「桜木町ON THE WALL」というイベントが実施された。

横浜市が文化・芸術の発展を期待し、国内有数のストリートアートで知られる、桜木町の旧東横線高架下に連なる約1kmの巨大壁面を、壁画による一大アート空間として活用する、全壁面を合法的な壁画キャンパスとして開放する実験的イベントである。
イベント参加者はアマからプロまで、小学生から50代まで、地元横浜から海外(海外・LA等)まで、幅広いアーティストによりグラフィティを含む80組弱のアーティストが参加して描き替え、巨大な屋外ギャラリーを生み出した。
グラフィティは1970年代にニューヨークで、スプレーやフェルトペンなどを使い壁や電車などに落書きをすることから始まり1980年代に入ってから、ごく少数のグラフィティ行為者が前衛芸術家として持て囃されるようになったが、公園、橋、建物、地下鉄(列車)、窓などに描かれるグラフィティの多くは、所有者に許可を取っていない場合が多く、許可がない場合は器物損壊にあたる犯罪行為である。日本に限らず世界各国で社会問題となっている(フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」)側面をもっており、当団体はそういった一般的な認知度の低いジャンルであるストリートアートや現代アートにも光をあて、さまざまな表現者を支援し、国内のアート支援をすすめる点で、実験的であり新しい形であるといえる。

私は「桜木町ON THE WALL」にアーティストとして参加をした。
一般市民の通行する公道での実施で駅へ向かう道でもあったことから普段アートというものに馴染みのない多くの人々の目にも触れる機会があり、また、アーティストとしても幅広い年齢層の市民の方々とコミュニケーションをとる事ができた。
アーティスト同士も種々様々なジャンルの表現者が集まっており、一言に壁画といっても、表現技法の幅が広く勉強になった。
既存の枠のなかでは発揮できないモチベーション・才能を持った人々や、まだ広く世間には知られていないアートのジャンルを発見し、参加させる事は少数派のアートを見たいという享受者のニーズをも満たすとともに社会に根付かせる活動でもあり結果的に様々な市民へのアプローチにつながったに違いない。

NPO法人KOMPOSITION(以下KOMPOSITION)は、若者の健全化及び社会教育に関する事業を行うと同時に、若者の権利拡大及び活動支援に関する事業を推進することにより、健やかにして活力ある若者文化の創出を促進することで、社会全体の利益増進に寄与することを社会的ニーズと捉えその充足の為に様々なイベントを実施している。
特に、落書きとして扱われがちなジャンルのアートをオーナーからの提供によるビルの壁にアート作品のキャンバスとして制作・展示する活動等の「リーガルウォール」は、2004年から企画運営され現在では芸術活動としての認知度に大いに貢献している。街の落書きをボランティアで消しキャンバスとして使用する事により多くの絵描きにチャンスを提供・支援し、街が絵で彩られるという美観維持の効果と壁画制作をつうじて新たな人と人との交流がうまれるという社会の文化的ニーズをも満たす効果的なサービスといえる。

新しい分野で活動し、自分の表現を突き詰めることにストイックな表現者に場や機会を提供するという理念と、常に自分たちの身近なところから始めるというKOMPOSITIONの姿勢と横浜市の理解・NIKEの支援によって芸術文化の普及というサービスが成立し得たわけであるが、
芸術とは、刻一刻と時代とともに変化していく生き物のような性質をもっているが故に既存の価値のみならず企業と非営利組織が常に芸術文化に対して鋭いアンテナをはり、芸術と社会の出会いを演出することによって社会の理解と支援を獲得し、芸術文化が市民社会の中で社会的なポジションを得るとともに、より高い水準へ向かうようなマネジメントをするべきである。

参考
横浜市都市整備局http://www.city.yokohama.jp/me/toshi/toshiko/atochi/sotw.html
NPO法人 KOMPOSITION (コンポジション)http://komposition.org/
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by artkzr | 2010-05-03 15:56 | 考察